奈良康明「ラーマクリシュナ(人類の知的遺産53)」(1)

ラーマクリシュナ

【インド神秘思想とその系譜】

  • 神秘体験という言葉はオカルト的心理状態と混同して用いられることが多い。しかし、神秘主義を本来的な意味である「絶対者との触れ合い」ととるなら、これはいかなる宗教にとっても中核をなすものに違いない。「神=最高実在=宇宙の究極的根拠として考えられる絶対者を、その絶対性のままに、自己の内面で直接に体験しようとする立場、そしてその体験によって自己が真実の自己となろうとする立場」だ。この絶対者とどう関わり、絶対者を体験するのにいかなる修行が説かれるかによって、各宗教の差が示される。
  • 神秘体験の4つの特徴(岸本英夫)⇒①特異な直感性、②実体感、③歓喜高揚感、④表現の困難
  • 釈迦はアートマンの存在を否定して「無我」と言ったのではない。生命、健康、身体、財産等、どんなものも「私」だとか「私のもの」と言って握りしめ、永遠に持って行けるものは何も無い。つまり万物は「我」として捉えられるものではない。「我」ではない、「我」に非ざるもの(非我)であるという意味で「無我」を説いているのだ。
  • シャンカラの説は、実在はブラフマンのみで、不二であると言うところから「不二一元(アドヴァイタ)」と呼ばれる。そしてアートマンが実は最高我そのものであり、現象世界はマーヤーであるという明知が生じ、無明がほころびたときに解脱するという。シャンカラの言う「無明」とは、行為の主体でもないのにそれらの主体だと考え、永遠に存在するのに存在しないと正反対に考えることだ。

【ラーマクリシュナの思想】

  • 【ブラフマンと神】 ラーマクリシュナにとって絶対の真実はブラフマンだ。ブラフマンは実在・叡智・歓喜(サット・チット・アーナンダ)を本質とし、言葉で表現できるものではない。それは、塩で作った人形が大海に飛び込んで水の深さを測ろうとするようなもので、一度ここに行き着いたら帰って報告することはできないそれを言葉で説明しようとしたヴェーダ、プラーナ、タントラ、六派哲学などは、全て食べカス」に等しい」という。
  •  この「無相無形のブラフマン」は「有形の人格神」の形をとって現れる。クリシュナ、シヴァ、カーリー、キリスト、モハメットなども全て、ブラフマンが具体的な形をとって現れたものだ。ブラフマンは千の名前を持つが、実体は一つであり、ちょうど水をウォーターといい、ジョル(ベンガル語)といい、パーニー(ヒンディー語)と呼んでも、水は同じ水だ。大海が凍ると様々な形の氷になるが、智慧の太陽が昇ると水に戻るようなもの」だ。
  • なぜ神は様々な形をとるのか。我々の信仰力、神への愛に応じるためだ。ブラフマンは信仰者の求めに応じて有形身を現す。「私」という自我はなかなか消えないし、自我が少しでも残っている間は無相・無形のブラフマンに心を定めることはできない。「それじゃあ、〈私〉はそのままにしておいて、この手に負えない奴を神様の召使いにしてしまえ。この「私」に対する神はいやでも有形の人格神たらざるをえない。これが信者の求めに応じた神の造化力(シャクティ)の働きである。
  • 「完全智を得たならば、神と神の造化力(シャクティ)は同じだ。宝石の輝きと宝石のように。宝石の輝きを思えば、必ず宝石のことを思うだろう。牛乳と牛乳の白さのように。一方を思えば、もう一方を思わぬ訳にはいかない。しかし、この不異の智慧は、完全な知識を得てからでなくては我がものとならない。完全智の三昧に入ると、〈我(アハム)〉の意識がなくなるんだよ。言葉ではとても説明できるものではない。そこには〈私〉も〈あなた〉もないんだ
  • 「〈私〉と〈あなた〉がある間、たとえば私は祈っているという気持ちがある間は、神(あなた)が祈りを聞いてくれるという感じがある。神を人格として感じているわけだ。そういう場合は、こう思っているがいい。あなた(神)は主人、私は召使い。あなたは全体、私はあなたの一部分。あなたはお母さん、私は子供。こういう「差異」の感覚は、他でもない、神が感じさせてくれるんだよ。だから男と女、光と闇、その他たくさんの違いを感じるんだ。この違いの感じがある間は、人格神を認めなければならない。神が私の中に〈私〉という感じを置いてくださるんだよ。〈私〉という意識がある間は、神は人格神として現れる。だから、〈私〉がある間、つまり「違いの感じ」がある間は、ブラフマンが無相・無性だと言ってみてもはじまらない。言う資格がないんだ。その段階では有相・有性のブラフマンを認めなければならない
  • 「動かないものと感じられるときはブラフマンといい、(宇宙を)創造し維持し破壊しているとみるときは根本造化力(アーディヤ・シャクティ)であって、大実母カーリーなどという。ブラフマンとシャクティは同じもので、火と燃える力のようなもの」である。
  • ラーマクリシュナにとっては有形のブラフマン、つまり人格神を認めることは、最初から無相のブラフマンを(知識の道により)求めゆくことよりはるかに容易であった。しかし、行き着くところは全く同じであって、だから彼にとって、神は有形か無形かという論争は不毛という他ないのである。

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