- 【神と人間】 人間の本性は純粋真我で、これは世界展開にかかわる三グナを含むが、それには左右されない。「アートマンには明知も無知もあるが、どちらの影響も受けない。空気の中で時折よい匂いがしたり悪い臭いがしたりするが、空気そのものとは無関係だ」。この純粋真我を知るのがブラフマン智であり、これを「生前解脱(ジーヴァン・ムクティ)」と呼ぶ。
- ラーマクリシュナは生物も世界も神が造り、神そのものである以上、ここには自我が一切立たないことを強調する。「私」と「私のもの」という思いが無知であり、人間を輪廻転生せしめるものである。
- 人間は神に対して、「私」とか「私のもの」が一切立たない関係にある。彼はこれを「行為者と非行為者」「使い手と道具」「母と子」「主人と召使い」などと繰り返し表現し、執拗に「私」を排斥していく。たとえば、「私はグルでもなく教師でもない。私が話しているのでもない」「私の瞑想というものもなく、神に瞑想させてもらっているにすぎない」「私が祈るというのも、神が祈りを聞いてくれるという〈自我〉が残っている証拠だ」「神は慈悲深いなどと言う表現もまだ〈我〉が残っている証拠で、修行中はこういう表現をしても構わないが、本当は改めてこんなことを言う必要はない」。つまり、神の前で「私」とか「私のもの」とかは主張され得るものではない。だからヴェーダーンタ派のように「それが汝だ(タト・トヴァム・アシ)」とか「私がそれだ(ソー・ハム)」と教えられても、一般の人間にそんなことは出来るべくもないのである。
- ブラフマンが現象世界を作り出すとき、その働きには「明知(ヴィディヤー)のマーヤー」と「無知(アヴィディヤー)のマーヤー」の二種があると言う。前者は知識・信仰・離欲などを引き起こす働きで、これにより個我は純粋真我の前に全面降伏し、神のもとに近づくことが出来る。後者は欲望・怒り・嫉妬・高慢等で、我執を助長し、自らを束縛するものであり、滅ぼされるべきものである。
- ここで重要なことは、人間が肉体をもっている限り、身体の機能を働かすためにも、マーヤーが「少しは」なければならないことである。ここに彼がしきりに「私」と「私のもの」は完全には無くせるはずはないのだ、と言うことの一つの根拠がある。だからこそ、この我を、最初から無くせと言わずに、これを転化して神に全面降伏の我に仕立て上げろと言うのである。