- 【有形・無形論争】 当時のインドで最も非難されたものの一つに「偶像崇拝」がある。R.M.ローイが率いる梵協会(ブラフマ・サマージュ)も偶像崇拝を峻拒している。無論、神は否定せず、無相無形のブラフマン「そのもの」に近づく道を説いているが、この方法で神を見ることの難しさはラーマクリシュナが指摘している。梵協会会員がラーマクリシュナのところにやって来ては、神の有形・無形論争を挑んでいるし、『不滅の言葉』のMまでが、最初の頃は形ある神を礼拝する気にはならないと答えている。ヴィヴェーカーナンダも同様で、偶像の意味なきことを論じては手こずらせている。
- 彼はこの点については非常に大らかで、「人格神を信じている人のところでは有形の神に賛成し、無相の実在を信じている人のところでは形なき神に賛成しているのさ」と笑わせる。しかし、有形の神は所詮、無形の神から出るもので、有形の形にとらわれては本質を誤ってしまう。カーリーはなぜ黒いのかと聞かれて、彼は黒くないと答える。「大海は遠くから見れば青いが、近寄ってみれば透明である」ことを喩えにして、本質は無形無性であることを説明している。
- 「水をいっぱい入れた水瓶が十個あると、映像の太陽が十個に本物の太陽が一つある。水瓶を一つ割ると、映像は一つ減る。では水瓶が全部割れたらどうなるか。本物の太陽だけが一つ残る、というのは間違いで、「何が残っているかは口では言えない」。在るものが在る。映った映像がなかったら、真実の太陽があるということが、どうしてわかる?」。つまり、映像(人格神)は本当の太陽(ブラフマン)を知るのに必須のものというのだが、では映像は真実ならざるものかというと、そうではない。
- 「一生懸命にあの御方を祈れ。そうすることで精神が清浄になっていく。澄んだ水には太陽の影がよく映る。信仰者の〈私〉という鏡に、ブラフマンである根本造化力(人格神)が映って見えるんだよ。でも、その鏡はうんと綺麗に拭かなけりゃ駄目だ。汚れが付いていると正しい映像を見ることはできない。〈私〉という水に太陽を映して見るより他に太陽を見る方法がない限り、映像でしか真実の太陽を見る方法がない限り、その間は太陽が100%の真実なんだ。〈私〉が本当にあると思っている間は、映像の太陽も本当にあるんだよ。その映像の太陽が根本造化力(人格神)なんだ。もしブラフマン智を得たいなら、その映像をたどって太陽の方に行けばいい。その有性ブラフマンに祈ればちゃんと聞き届けてくださって、ブラフマン智も与えてくださる。だって有性ブラフマンが即ち無性ブラフマンだから…完全智を得たらこの二つは同じだ」。
- 【ブラフマンと現象世界】 彼は「信仰者の三段階」と言う。低位の信者は「ああ、神よ。大空の彼方にいます方よ」、中位の者は「あの御方は胸の中に、私の全てを見そなわす者としておわす」と言い、上位の信者は「あの御方は全てのものになっていらっしゃる。私の見るもの全て、一つひとつがあの御方の姿だ」と言う。「私は突然、あらゆるものがブラフマンだということを見せてもらった。水入れも、銅皿も、祭壇も、扉も霊なんだ。その時、私は気狂いみたいになって辺り一面に花をまき散らしたよ! 見たもの全てを拝んだよ」。
- こうした体験は「暗闇の部屋で一生懸命マッチを擦っているうちに、突然パッと火がついて明るくなる。そういう具合にあの御方がパッと光をくださったら、疑いは全部消えてしまう」ように現れる。それでは毎日コップを拝んでいるかといえばそうではなく、日常普通の状態に戻ればコップはコップでしかない。しかし、単なるコップでもないので、神そのものとの思いが深く染み込んでいる。「時たま、あの御方は生き物や世界全てをお造りになったのだということを、私に見せてくださる。あの御方が全部になっているんだ」。
- では、何故に神は万物として姿を表すのか。ブラフマンが世界を創造したのは何らかの目的があったのではなく、単なる「遊戯(リーラー)」だと『ブラフマ・スートラ』は説く。「この世はあの御方の遊戯(リーラー)だよ。ゲームみたいなものさ。この遊びのために、幸と不幸、罪と徳、知識と無知、善と悪、こういうものが皆あるんだよ。不幸や罪といったものが皆なくなったら、遊びは続けられないからね」「知者は、あの御方は実在し、あの御方こそ行動者(カルター)であって、創造・保存・破壊の活動をしていると見る。覚者は、あの御方こそが万物万象となって存在しているのだと見る」。つまり、善いことも悪いことも神の遊戯であり、神の働きであり、したがってシャンカラ的に現象を「幻(マーヤー)」とみる説をラーマクリシュナは採らない。「それは哲学の話」と言い、永遠不変のブラフマンと変化無常の現象世界は木の実の外皮と中身のようなもので、どちらも本物の木の実であることには変わりない。だから、ブラフマンも人間も動物も、この世も「全て真実」として受け入れる。