奈良康明「ラーマクリシュナ(人類の知的遺産53)」(4)

ラーマクリシュナ
  • 【解脱】…個我(ジーヴァ・アートマン)を束縛するマーヤーが消えると、純粋真我(ブラフマン)が現れる。このとき肉体感覚は失われ、世知世俗の念は乾いてしまう。三昧の状態においてブラフマンを見るとき、「私」は消え「在るものが在るだけ」となり、「あなたと言えばいいのか、私といえばいいのか、それはあなた(神)が分かること」と言わざるを得ない。そしてちょうど、塀に登って覗いていた人が向こう側に下りるともう帰ってこれないように、私は戻れなくなる。ブラフマン智を得て、そのままでいると21日間で肉体は滅びる。しかし、「私」を全部消さずに、またこの日常世界に戻ってくることがある。このときの「私」が「明知の私」で、人々を導くためのものであり、「見せかけの私」であって全くを執着を離れている
  • 「覚者は眼を開けているだけで神が見える人」であって「ときには永遠不変のところから降りてきて、無常の神の遊戯の現象世界に住み、また永遠の世界へ行く」。ラーマクリシュナも無論覚者であるから、「あの御方が境地を変えてくださるときは、変化と活動の世界に心を下ろしてくださる。すると、私は神様だのマーヤーだの、やれ人間だ動物だと、この世界を眺める。するとあの御方が全部になっていることが分かる」
  • ラーマクリシュナはブラフマン智を得て神の遊戯を味わっているのだが、これは「ある修行者が町を見物していた。ばったり出会った知り合いの修行者が『面白そうに見物しているようだが、荷物はどこに置いてあるんです。まさか泥棒に持って行かれたんじゃあるまいね』と言うと、修行者は『おや、私はまず宿をとって、荷物をちゃんと宿に置いて、鍵を掛けてから見物に来た』」ようなものだと喩える。この見物している「私」が「明知の私」であるから、これはいわば「解脱の眼」「悟りの眼」のラーマクリシュナ的表現と言っていい。
  • 三昧は大別して二種ある。一つは「非ず、非ず(ネーティ・ネーティ)」と分別・判断による否定を極限まで推し進めていって最後に自我が消えてなくなったときの「無分別三昧」、これは「知識の道」から導かれる三昧だ。もう一つは「バクティの道」から入る「バヴァ三昧」で、この場合には「楽しみを味わうための〈線〉のような我が残っている」という。しかし、バクティによってバヴァ三昧を得、神を見、神と話をするが、もし望めば無分別三昧を得て、実在・叡智・歓喜(サット・チット・アーナンダ)をも見られるのだという。「大実母に頼めば両方見せてくれる」というのだが、ウパニシャッド~ヴェーダーンタ派以来の主知的な行法伝承とバクティの伝承が、見事に簡単に結合せしめられている。
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